写経といえば般若心経。今や写経の一般的な物となった般若心経。その般若心経を写経するにあたってその意味を理解することが大切です。 五蘊の意味/般若心経と写経 忍者ブログ
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五蘊の意味
 パンチャ・スカンダ-スの訳です。パンチャは数字の「五」の意味。スカンダ-スは「集まり」の意味。よって、集まりを意味する「蘊」の語が当てられています。
 ここで言う「五つ集まり」とは「色・受・想・行・識」を意味します。この事は、心経の後の文で具体的に示されています。
 さて、ここで問題となるのは、「五蘊」の範囲です。
 既に示した「真髄和訳」(空-七-十九)では---
<(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し>---としてあります。つまり、「個我の五蘊」に限定した理解です。この場合、観自在菩薩は、「人我見」(前篇第三章参照)を克服して「人無我」の真理を悟った、という意味になります。
 一方、「般若心経・金剛般若経」(中村元・紀野一義訳注 岩波文庫)の和訳では---<存在するものには五つの構成要素があると見きわめた>---との訳になっています。つまり、人間の「個我」に限定せず「世界全体、総ての存在一般には~」と最広義に広げて解釈しているのです。この場合、観自在菩薩は、「人我見」のみならず「法我見」をも克服して「人無我+法無我」の真理を悟った、という意味になります。
 
(空-七-五一)
 高神覚昇氏も、「般若心経講義」(角川文庫)の第二講で次のように説いています。
「主観も客観も、一切の事々物々、みなことごとく、五蘊の集合によってできているというのが、仏教の根本的見方でありますから、いわゆる物心一如、または色心不二の見方が、最も正しい世界観、人生観である、ということになるわけであります」(34頁)と。
 このように、高神氏は「一切の事々物々、みなことごとく『五蘊=色受想行識』で出来ている」と説いています。
 ひどい話です。目茶苦茶も甚だしい話です。
 例えば、石ころに、「受」(感覚受容器官)があるのでしょうか。「想念」が有るのでしょうか。意志があるのでしょうか。
(尚、高神氏は、同じ第二講で「度一切苦厄」の解釈についても、とんでもない解釈を開陳しています。尤も、日本の多くの僧侶、時に阿闍梨レベルでもこれと同じ解釈をしているので、一種の悪しき流行に乗った解釈と言えます。「語義解析10」空-七-●●参照)
 
(空-七-五二)
 これに較べ、岩波文庫の和訳--「存在するものには五つの構成要素がある」--という言い回しは、これよりも思慮深い(悪く言えば、巧妙な官僚的言語遊戯に長けた)表現です。
 石ころに「受・想・行」などが有ることになってしまうような“ズボラな”表現はしないのです。そして、飽く迄も---存在一般を眺めると、一般的命題として、存在には「五つの構成要素」が数えられる---とだけ言うことで、五要素の「どれか一つ」でも有ればそれで良い、という表現法をしているのです。だから「集合」とか「集まり」という訳し方は意図的に回避しているのです。(実に狡賢いワザを使っています)
 よって、岩波文庫の和訳を逆に漢訳するならば「五蘊」にはなりません。「集まり」である事を回避しているので、「五衆」と訳すべきことになります。集まりではなくて、五つのメンバ-のどれか、という意味です。
 
(空-七-五三)
 では何故、名だたる学者先生が、このような「変な和訳」をするのでしょうか。
 それは、観自在菩薩が悟った「その悟り」を「完全な悟り」即ち「我見全般(人我見+法我見)を超越した悟り」だと、“梃子(テコ)でも”位置付けたいからでしょう。
 実に、学者らしいマインドの強い態度です。
 しかし、真の般若ヨ-ガの実践者であるならば、原文のパンチャ・スカンダ-スを素直に「五蘊」と訳し、「五蘊」とは「人間の個我」のみを意味する、と(限定的に)解釈しても、恬淡としていられます。
 何故なら、「真の悟り」とは、先ず「人我見」を克服して「人無我=個我無自性」を悟り、それ故に、その連鎖的拡張として、次に「法我見」を克服して「法無我=諸法無自性」を悟るに到るからです。
 この「二段階深化」の順序は、決して逆にはできません。先ず、脚下を照顧して、それから外的な諸法の正見に到るのです。
 ---例えば、ゴリラやチンパンジ-には、彼ら独自の五蘊(色受想行識)が有ります。しかし、般若ヨ-ガの実践者は、ゴリラを手で触ってゴリラの「色(物的肉体)を無自性なり」と看破するのではありません。般若ヨ-ガの実践者は、ゴリラでもないのに、ゴリラの受(感覚)や想(想念)が「無自性である」と、何故分かるのでしょうか。
 これで分かる通り、人は「(自分の)個我の無自性」を看破し切った時にだけ、外界の諸物・諸現象の無自性についても真の意味で「内的確証を得る」ことができるのです。
 これが「法」であり、不動の順序です。
 「個我の意識」を超越して「無限定の普遍純粋意識」に触れる(又は達した)した時にのみ、その連鎖的効果によって初めて外界の諸物・諸現象の無自性も真に大悟するのです。
 従って---梵語原文で「スカンダ-ス(集まり)」と表現している以上、ここでは「人間の、それも“瞑想者自身”の個我の五蘊」を無自性と看破した、という解釈だけが正しい理解だと言えます。
 ですから、こうした「人無我=個我無自性」に限定した解釈で、充分なのです。万物万象にまで拡大した「一般命題」 として訳すのは、大間違いです。
 
(空-七-五四)

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