写経といえば般若心経。今や写経の一般的な物となった般若心経。その般若心経を写経するにあたってその意味を理解することが大切です。 波羅蜜多の意味/般若心経と写経 忍者ブログ
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波羅蜜多の意味
 これは「パ-ラミタ-」の音写です。この意味については諸説有りますが、
①「到彼岸」と訳す説(伝統的中国仏教の流れ)
②「知慧の完成」と訳す説(中村元・紀野一義訳註参照) の二種類が、一般的に流通している解釈です。 
 
 ①「パ-ラミタ-=到彼岸」と解するのは、正規のサンスクリット語文法からすると間違いであることが現在証明されています。この解釈は、丁度、「幸せ」を「(皺と皺を合わせて合掌)しわ+あわせ」と解釈するような方法と言えます。ですから、パ-ラミタ-に対する俗な解釈法なのですが、しかしながら「パ-ラミタ-」を「彼方に(=パ-ラム)達した(=イ)状態(=タ)」と分解して「到彼岸」の意味と解する読み方は、それなりに説得力が有るため、中国や日本では、歴史的に多くの僧侶・仏教徒が支持して来た解釈です。
 一方、②「知慧の完成」という訳は、日本の最高学府出身の仏教研究の最高権威が提示した「新しい訳語」であり、戦後の日本仏教学界で不動の地位を得ている解釈です。
 しかし、たとえ立派な学者であっても(又は、たとえロ-マ法皇であっても)人間である以上、間違いを犯すことは有り得ることです。(「無謬性」の否定)
 
(空-七-二九)
 先に結論を言います。(日本の全仏教学者を敵に回す事ちなるとしても、はっきり言いましょう。) ②「知慧の完成」という訳は「六波羅蜜行」に引っ張られた解釈であり、大間違いの解釈です。
 確かに、「六波羅蜜行」を「六つの完成行」と解するならば、その六番目に位置する「般若」の完成行は自ずと「知慧の完成」という訳語になるでしょう。
 ---しかし、「完成」という訳語を使用した処に、如何にも最高学府の学者らしい、マインドの強い思考パタ-ンが露呈している、と言えます。別言すると、「マインド停止」に近づくような、実際の深い瞑想修錬を怠った、口先ばかり先行する生臭仏教徒らしい言葉の使用法と言えます。
 「私は日本最高学府出身だ」とか「私は誰より頭が良い」とか「私はサンスクリット語も英語も漢語もできる」とか「そこらへんの僧侶よりもずっと仏教に精通している」とか「私は大学の学長も勤める一流の文化人だ」とか「私は毎日新たな知識を『獲得』して、どんどん物知りになっている」等々、こうした「ニュ-ヨ-クの摩天楼」のごとき吾我驕慢心(あがきょうまんしん)をどんどん肥大化させて、「その先」に(人も見上げる)「完成」が有る、と思ったら、大間違いだと知らねばなりません。〔「僧医問題」(空-七-●●参照)もこれと軌を同じくする問題です。)---
 真の仏教の修行は、何かを積み上げて「高い塔」を完成させるような「行」では断じてありません。その反対に、それら「吾我驕慢心という摩天楼」を悉く「叡智の利剣」で裁断し、そうして何も無い「平地」にして、遂には「本地」に到達しようとする「行」なのです。(これを「完成」と言うでしょうか。)
 真の仏教の修行とは---泥土の中に埋もれた金塊を掘り起こしてその泥を除去し、中の金塊を露にして行くこと---に喩えられます。つまり、中の金塊は---<最初から「完全にして完璧」!>---なのです。別段、知識を積み上げて「完成」させて行く、というようなものではないのです。
 
(空-七-三十)
 従って、「六波羅蜜行」とは、本来、「六局面での<完全性>顕現行」を意味します。
 「荘厳なる無為」(前篇第三章第二節)は最初から「完璧」です。人間の「有為」だけが「無明なる動き=不完全」なのです。よって、この「有為」を除去すれば当然---<完璧なる無為>---が現れる道理です。
 故に、六波羅蜜行とは、六局面での「<完璧なる無為>との連動性」の達成を目的とする「行」を意味するのです。つまり---
①「完璧なる布施」 ②「完璧なる持戒」 ③「完璧なる忍辱」 ④「完璧なる精進」 ⑤「完璧なる禅定」 ⑥「完璧なる究極叡智」
 ---この六局面での「完璧」との「結合行=ヨ-ガ」こそが、「六波羅蜜行」なのです。
 ---とすれば、これで明らかの通り、「プラジュニャ-・パ-ラミタ-」を「知慧の完成」と訳すのは完全に「誤訳」だと言えます。
 正しくは、「プラジュニャ-(=本地の叡智)・パ-ラミタ-(=完璧性)」→「完璧なる本地の叡智(=完全究極叡智)」と訳すべきです。
 つまり、サンスクリット文法からすると、前分「プラジュニャ-(名詞)」+後分「パ-ラミタ-(抽象名詞)」は「同格限定複合語」であり、ここでは「後分の名詞」が「前分の名詞」を修飾する形になっているのです。(普通、この形は、後分が前分を「尊敬・称賛」する形で修飾するものです。)
 ですから、「本地の叡智(プラジュニャ-)・完璧なる(パ-ラミタ-)」となり、後分が前分を称賛しながら修飾する形だと言えます。
 尚、パ-ラミタ-は、「パラマ(完全)」の抽象名詞形で「完全性・最高位・至高状態」の意味です。
 
(空-七-三一)
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