原文では「ヴヤヴァロ-カヤティ スマ」(看破した)、及び 「パシャヤティ スマ」(見抜いた)という同種の動詞の過去形が二つ使われています。
梵語原文を直訳すると---<(観自在菩薩は)(個我を←省略されている)五つの集まりと看破し、それらが正に「自性ゼロ」と見抜いた>---という訳になります。
つまり、原文では、①個我が五蘊で出来ている と看破した後、②その五蘊がすべて無自性 と看破したわけで、「二段階の洞察の深化」が表現されているわけです。
しかし、漢訳では「この二段階深化」を省略して「照見・五蘊皆空」と一発洞察の形になっています。
尚、「照見」は「正見」に通じます。「正見」は自力では出来ず、光に照らされる体験を得て初めて達成されるもの、との認識が、漢訳者に有ったからでしょう。(イグナチオ・デ・ロヨラにも、「照明体験」と言われるものがあります。後篇第六章参照)
こうした光明体験は、修行者の思い通りに得られるものではありません。修行生活中や瞑想中に、盗人が来るように不意に突然向こうからやって来るものです。正に「照らされて見る」のですから、「照見」の訳語は(意訳ですが)実に適切な言葉と言えましょう。
「真髄和訳」では、「照見」のニュアンスを殺さないように配慮しつつ、梵語原文通りの「洞察の二段階深化」をしっかり訳出しています。
(空-七-五十)
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梵語原文を直訳すると---<(観自在菩薩は)(個我を←省略されている)五つの集まりと看破し、それらが正に「自性ゼロ」と見抜いた>---という訳になります。
つまり、原文では、①個我が五蘊で出来ている と看破した後、②その五蘊がすべて無自性 と看破したわけで、「二段階の洞察の深化」が表現されているわけです。
しかし、漢訳では「この二段階深化」を省略して「照見・五蘊皆空」と一発洞察の形になっています。
尚、「照見」は「正見」に通じます。「正見」は自力では出来ず、光に照らされる体験を得て初めて達成されるもの、との認識が、漢訳者に有ったからでしょう。(イグナチオ・デ・ロヨラにも、「照明体験」と言われるものがあります。後篇第六章参照)
こうした光明体験は、修行者の思い通りに得られるものではありません。修行生活中や瞑想中に、盗人が来るように不意に突然向こうからやって来るものです。正に「照らされて見る」のですから、「照見」の訳語は(意訳ですが)実に適切な言葉と言えましょう。
「真髄和訳」では、「照見」のニュアンスを殺さないように配慮しつつ、梵語原文通りの「洞察の二段階深化」をしっかり訳出しています。
(空-七-五十)
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