「五蘊をみな<空>と照見した」という一文の意味は、「空」の三義を当てはめた和訳(空-七-十八)で示した通りです。
漢訳で「皆空」としている以上、「空」の三義(空-七-四)をそのまま当て嵌めた解釈も当然可能と言えます。これも立派な「真理命題」です。よって、「皆空」という漢訳が誤訳だと断じることはできません。
しかし、梵語原文と対照すれば分かる通り、原文では「五蘊をシュ-ニャタ-(空)」とはと言っていません。態々(わざわざ)「スヴァバ-ヴァ・シュ-ニャ-ン(自性がゼロの)」という言い回しを選択し、「空」の三義の掛詞を排除して、「五蘊は総て無自性なり」と、限定的な表現をしているのです。この点を、しっかり押さえて置かく必要が有ります。
(この後の「色即是空」の漢訳で分かる通り)恐らく、漢訳者は「空に三義有る」とは認識していなかったのでしょう。多分、「空=無自性」と、一義的に解していたのです。だからこそ、この後の「色不異空~空即是色」の処では、原文が「空の三義」に対応した「三段の展開形」になっているのに、平然と大胆にも、それを一段削ってしまい、漢訳では「二段物」にしてしまったのでしょう。
一方、インド人の梵語原文制作者は「空に三義有り」と明確に認識しながら、何故、敢えてここでは「スヴァバ-ヴァ・シュ-ニャ-ン(無自性)」という一義に限定した表現を用いたのでしょうか。
これには、インド独特の文化的背景が影響していると見るべきです。
ヴェ-ダやウパニシャッド聖典など、多数の聖典を生み出して来た(霊性の先進国たる)インドでは、当時から現代に至るまで、「我は神なり。神は我なり」「梵(ブラフマン)は我なり。我は梵(ブラフマン)なり」と臆面もなく宣言する「ニセのグル(聖者・導師)」が掃いて捨てるほど存在します。こうしたニセグルは自分を「神の化身(アヴァタ-ラ)」と称し、弟子たちに自分を礼拝させ、好い気になっています。
こうした「玉石混淆、聖俗混沌、味噌糞一緒」というインドの宗教文化の中にあっては、ニセのグルと真の大聖者とを明確に識別する事が、取り分け重要になります。
そして、「その識別の分水嶺」---それこそが「五蘊無自性」の自覚の有無なのです。この自覚の中に住する者は、煩悩を超越し、「自性有る存在」だけの「ニミッタ・マトラム」(単なる道具)(★一-二二-五二★)に成ります。
(空-七-五五)
つまり、混沌としたインド文化の中で、漢訳文に有るような「空の三義」の掛詞のまま、「五蘊皆空」と経典で表現してしまっては、「我はブラフマン・大日空王主なり」という主張が「ニセのグル」によって、悪用・濫用されることは火を見るより明らかです。そこで、梵語原文では、敢えて「五蘊無自性」という表現を使ったのだと言えます。
最近の日本でも、ヒンドゥ-文化の流入と共に、その上辺だけを真似た「厚顔無恥なニセグル・ニセ釈尊」が何人も登場するようになって来ました。こうした状況を踏まえると、漢訳のように「五蘊皆空」と「空」の語を使うことを意識的に避け、梵語原文に沿って、「五蘊、これらには正に自性が無い」とか「五蘊、それらのいずれにも自性が無い」と訳して、これで読誦した方が誤解が起こる可能性が少なく、ずっと優れていると言えます。
(空-七-五六)
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漢訳で「皆空」としている以上、「空」の三義(空-七-四)をそのまま当て嵌めた解釈も当然可能と言えます。これも立派な「真理命題」です。よって、「皆空」という漢訳が誤訳だと断じることはできません。
しかし、梵語原文と対照すれば分かる通り、原文では「五蘊をシュ-ニャタ-(空)」とはと言っていません。態々(わざわざ)「スヴァバ-ヴァ・シュ-ニャ-ン(自性がゼロの)」という言い回しを選択し、「空」の三義の掛詞を排除して、「五蘊は総て無自性なり」と、限定的な表現をしているのです。この点を、しっかり押さえて置かく必要が有ります。
(この後の「色即是空」の漢訳で分かる通り)恐らく、漢訳者は「空に三義有る」とは認識していなかったのでしょう。多分、「空=無自性」と、一義的に解していたのです。だからこそ、この後の「色不異空~空即是色」の処では、原文が「空の三義」に対応した「三段の展開形」になっているのに、平然と大胆にも、それを一段削ってしまい、漢訳では「二段物」にしてしまったのでしょう。
一方、インド人の梵語原文制作者は「空に三義有り」と明確に認識しながら、何故、敢えてここでは「スヴァバ-ヴァ・シュ-ニャ-ン(無自性)」という一義に限定した表現を用いたのでしょうか。
これには、インド独特の文化的背景が影響していると見るべきです。
ヴェ-ダやウパニシャッド聖典など、多数の聖典を生み出して来た(霊性の先進国たる)インドでは、当時から現代に至るまで、「我は神なり。神は我なり」「梵(ブラフマン)は我なり。我は梵(ブラフマン)なり」と臆面もなく宣言する「ニセのグル(聖者・導師)」が掃いて捨てるほど存在します。こうしたニセグルは自分を「神の化身(アヴァタ-ラ)」と称し、弟子たちに自分を礼拝させ、好い気になっています。
こうした「玉石混淆、聖俗混沌、味噌糞一緒」というインドの宗教文化の中にあっては、ニセのグルと真の大聖者とを明確に識別する事が、取り分け重要になります。
そして、「その識別の分水嶺」---それこそが「五蘊無自性」の自覚の有無なのです。この自覚の中に住する者は、煩悩を超越し、「自性有る存在」だけの「ニミッタ・マトラム」(単なる道具)(★一-二二-五二★)に成ります。
(空-七-五五)
つまり、混沌としたインド文化の中で、漢訳文に有るような「空の三義」の掛詞のまま、「五蘊皆空」と経典で表現してしまっては、「我はブラフマン・大日空王主なり」という主張が「ニセのグル」によって、悪用・濫用されることは火を見るより明らかです。そこで、梵語原文では、敢えて「五蘊無自性」という表現を使ったのだと言えます。
最近の日本でも、ヒンドゥ-文化の流入と共に、その上辺だけを真似た「厚顔無恥なニセグル・ニセ釈尊」が何人も登場するようになって来ました。こうした状況を踏まえると、漢訳のように「五蘊皆空」と「空」の語を使うことを意識的に避け、梵語原文に沿って、「五蘊、これらには正に自性が無い」とか「五蘊、それらのいずれにも自性が無い」と訳して、これで読誦した方が誤解が起こる可能性が少なく、ずっと優れていると言えます。
(空-七-五六)
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