『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』と言いますが、インドのサンスクリット語の原典にはタイトルはなく、中国で、結びの言葉に「経」を付加してタイトルにしたのです。
「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言いますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。
「フリダヤ」は直訳すると「心臓」ですが、「真髄」や「真言」という意味で使われます。「真髄」という意味だと解釈する説と、「真言」という意味だと解釈する説がありますが、どちらだろうかと考える必要はありません。なぜなら、経典の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の真髄は真言である」ということだからです。『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。実際、鳩摩羅什をはじめ多くの人が「真言」と解釈して訳しています。ちなみに「真言」という言葉で漢訳されていないのは、この時代には「マントラ」を「真言」と訳すことがまだ定まっていなかったからです。
『般若心経』は、全600巻という膨大な量の『大般若経』から、いくつかの文章を抜き出して独自の解釈でまとめたものです。ですが、『般若心経』は観自在菩薩が「般若波羅蜜多」の真言を説くという点で特殊です。
日本で一般的に知られている『般若心経』は、西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵が翻訳したものである言われていますが、鳩摩羅什の翻訳とほとんど同じでもあり、確かではありません。
玄奘が訳した『般若心経』は「小本」と呼ばれる版ですが、これよりやや長い完全版の「大本」という版もあります。 「小本」には観自在菩薩の説法だけが抜き出されていますが、「大本」には経典の物語の基本設定に当たる部分(上の訳の最初と最後の青字の部分にその大筋を訳しています)が書かれています。この部分がないと、お釈迦様も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。
『般若心経』は修行法について説いています。お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想(観=ヴィパッサナー瞑想)で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました。
仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッサナー)」と呼びます。「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。
『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でていると考えられる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。
仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始まりとも言われています。
「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言いますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。
「フリダヤ」は直訳すると「心臓」ですが、「真髄」や「真言」という意味で使われます。「真髄」という意味だと解釈する説と、「真言」という意味だと解釈する説がありますが、どちらだろうかと考える必要はありません。なぜなら、経典の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の真髄は真言である」ということだからです。『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。実際、鳩摩羅什をはじめ多くの人が「真言」と解釈して訳しています。ちなみに「真言」という言葉で漢訳されていないのは、この時代には「マントラ」を「真言」と訳すことがまだ定まっていなかったからです。
『般若心経』は、全600巻という膨大な量の『大般若経』から、いくつかの文章を抜き出して独自の解釈でまとめたものです。ですが、『般若心経』は観自在菩薩が「般若波羅蜜多」の真言を説くという点で特殊です。
日本で一般的に知られている『般若心経』は、西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵が翻訳したものである言われていますが、鳩摩羅什の翻訳とほとんど同じでもあり、確かではありません。
玄奘が訳した『般若心経』は「小本」と呼ばれる版ですが、これよりやや長い完全版の「大本」という版もあります。 「小本」には観自在菩薩の説法だけが抜き出されていますが、「大本」には経典の物語の基本設定に当たる部分(上の訳の最初と最後の青字の部分にその大筋を訳しています)が書かれています。この部分がないと、お釈迦様も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。
『般若心経』は修行法について説いています。お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想(観=ヴィパッサナー瞑想)で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました。
仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッサナー)」と呼びます。「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。
『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でていると考えられる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。
仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始まりとも言われています。
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