写経といえば般若心経。今や写経の一般的な物となった般若心経。その般若心経を写経するにあたってその意味を理解することが大切です。 観自在菩薩の意味/般若心経と写経 忍者ブログ
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観自在菩薩の意味
 アヴァロ-キテ-シュヴァラ(観自在)ボ-ディサットヴァ(菩薩)の漢訳が「観自在菩薩」です。
 先ず、「菩薩」の語義から解説しましょう。
 何故、ボ-ディサットヴァで「菩薩」という訳になるのでしょうか?
 「ボ-ディサットヴァ」のパ-リ語訛りが「ボ-ディサッタ」です。
 これをそのまま漢字に音写すると「菩提薩捶」となりますが、これを略して「菩薩」としました。(「国有鉄道」を「国鉄」と略して言うのと同じ省略法です)
 「菩薩」の意味には諸説あるも、その本質をズバリ一言で表現すると---
 
<ボ-ディ(悟り)(に向かう)+サットヴァ(純心抱く勇者)>---の意味です。
 では何故、こう言えるのでしょうか。
 ボ-ディは、ブドゥ    (目覚める)の派生語で「目覚め=本覚=悟り」の意味。
 サットヴァは多義的言葉です。語源的には、アス   (在る)の派生語で、第一に「存在」又は「生命有るもの=衆生・有情」の意味です。また、アス(在る)の派生語サット   が「善い、真の」という意味なので、サットヴァで「純真な心、変わらぬ心、決定心、堅固な心、大志、勇気」の意味にもなります。
 また、サトヴァン     には「勇者、戦士」の意味が有ります。そこで、自分たちのことを「悟りに向かう勇者」としても位置付けることを願った大乗の信徒たちが、サトヴァンとの「掛詞」として「サットヴァ」(大志抱く存在)を使用したと解すべきです。
 従って、ボ-ディサットヴァで「悟りに向かう純心(発心)堅固な勇者」即ち、簡略化して---<悟りへの発心堅固な勇者>(空-七-二六の和訳の通り)---となります。
 「発心」とは、一念発起という言葉も有る通り、聖なるなる渇仰心の一念を発起させた心のことです。「発心」こそ純質なる心(サットヴァ)です。
 これで分かる通り、サットヴァには「聖なる渇仰心」の意味も有ります。聖なる渇仰心を大乗仏教では「菩提心」と言います。「ボ-ディ(菩提)+チッタ(心)」で「悟りを求める心」の意味です。「発菩提心」略して「発心」とも言います。
 この「ボ-ディ・チッタ」(発心)を抱きつつ諸々の困難に立ち向かって行く「勇者」こそが「菩薩(ボ-ディサットヴァ)」です。
 「発心=菩提心」を捨てることなく、発心の勇者として生活して行くならば、その先には必ず「悟り」というゴ-ルが待っています。(これは万人に当て嵌まる「法」です。)
 
(空-七-三三)
 ところで、「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫 中村元・紀野一義訳注)では、ボ-ディサットヴァを単に「求道者」と訳しています。しかし、これでは弱過ぎて「ボ-ディサットヴァ」の真義が、誰の心にも全然響かないのではないでしょうか。
 また、「バウッダ」(小学館 中村元・三枝充●著)の中で三枝博士は、ボ-ディサットヴァとは「智も徳も行も、すべてに傑出し、現在はまだ仏ではないけれども、必ず仏となることの確定している候補者」と定義しています。(三枝説)
 しかし、原初の大乗仏教徒たちは自分たちを「菩薩と自称していた」事実を看過してはなりません。彼らは決して、三枝説のようなマインドの強い定義を念頭に置きながら「菩薩」と自称したわけではないはずです。(「単なる学者としての傍観者的見解」と「実際の使用者」との間には、言葉のニュアンスに重大なズレが有ると言うべきです。)
 従って、前述の通り---<悟りへの発心堅固な勇者>---との訳が、語義に忠実であり、尚且つ、こう自称する人々の心にも響く「最も適切な解釈」と言えましょう。
 
(空-七-三四)
 次に「観自在」の語義を解説します。
 何故、「アヴァロ-キテ-シュヴァラ」で「観自在」という訳になるのでしょうか。
 アヴァは「遍く、及ばぬところのない」という意味。ロ-キタ lokita は、ロカ loka (注視する、看取する)の過去受動分詞で「隅々まで看取した」という意味。
 これに「~する能力の有る者、自在者、王」の意味のイシュワラ isvara を結合させて「アヴァロ-キテ-シュヴァラ」になったのだろう、と解釈するならば、イシュワラを「自在」と訳して「観自在」という訳になります。
 一方、「イシュワラはヒンドゥ-教で用いる言葉なので仏教では用いないだろう」と考えるならば、「アヴァロ-キタ+スヴァラ」の複合語と解することも可能です。
 スヴァラ svara には「音声、響き、(群衆の)ざわめき」の意味がありますし、「ロカloka  」には「世界」の意味もあります。
 そこで、「観世音」略して「観音」という訳が出て来ます。世界の人々の憂悶の声やざわめきを遍く「看取=感取」した菩薩、という解釈です。(しかし、この解釈からすると、ロカは過去受動分詞にする必然性はないし、寧ろ、そうしない方が良い、と言えます。)
 観音経は「人々の音声を看取する菩薩」という解釈で制作されたお経です。このお経の存在によって、観音菩薩が世の人々の「憂悶の声」を感取して、人々を救いに来て下さる、という信仰が確立しました。
 
(空-七-三五)
 では、本当の処、最初に「アヴァロ-キテ-シュヴァラ」と命名した大乗仏教徒は、この名前にどんな意味を込めていたのでしょうか。
 思うに、最初の命名者は「アヴァロ-キタ+スヴァ ル」の複合語として、この名を生み出したと解すべきでしょう。
 スヴァ ル    とは、「光明・光輝」の意味です。この「光」とは、「存在の光輝=神の光=本地の叡智の光」の意味です。
 つまり---<(存在の本質の)光輝を遍く看取した菩薩>---これぞ、アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァの本義だと言えます。
 元々、動詞「ロカ(見る)」の中には、「光を求める」ニュアンスが入っています。何故なら、光無くして見ることはできないからです。ア-ロカ-ルティン      は「求光明」とも漢訳されます。
 「万物万象の存在の本質」即ち「自性在る存在」の光明を求め求めて「瞑想行」を実践し、「その光輝を遍く看破することを渇望する菩薩」---それが、アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァなのです。
 従って、言葉の本義に基づいて、新たに漢訳し直すならば---
<観“在光”菩薩、  観“遍光”菩薩、  観“普光”菩薩、  観“普明”菩薩>---等々ということになるでしょう。
 
(空-七-三六)
 しかし、「観自在菩薩」という名称は既に余りにも浸透し切ったものなので---
<「存在本源の光輝を遍く看取することを渇望する菩薩」即ち「観普明菩薩」は~>---(空-七-★★参照)という和訳を全面に持って来るならば、多くの日本人がびっくり仰天して、拒絶反応を起こしてしまうでしょう。故に、本義に忠実な直訳は飽く迄も二次的・補完的和訳の位置に留まらざるを得ません。
 そこで、「観自在」という言葉を活かしながら、本義を殺さないように翻訳する必要が出て来ますが、この作業は然程(さほど)困難なものではありません。何故なら---
<「(絶対/相対)両界を自在に観想することを渇望する菩薩」即ち「観自在菩薩」は~>---とすれば良いからです。
 この和訳は「アヴァロ-キテ-シュヴァラ」の本義から自然に流出して来る訳だとも言えます。というのも、「『自性在る存在』(絶対界)の光輝を看取・観照する菩薩=観普明菩薩」は必ず「相対界/絶対界」両界を自在に観想する「中観の境地」に達するからです。
 
(空-七-三七)
 以上、アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァを---
 
  「絶対/相対」両界を自在に観想する、という「悟り」への発心抱く勇者
  存在の本質の光輝を遍く看取する、という「悟り」への発心抱く勇者
 
 と理解するならば、この名称の内実をしっかり把握したことになります。
 
(空-七-三八)
 その他、「観自在菩薩」を巡っては、次の二つのポイントが有ります。
 
(ア) バクティ・ヨ-ガ(特定対象の外観礼拝)からのアプロ-チ
(イ) ハンニャ-・ヨ-ガ(超対象の洞察礼拝)的なアプロ-チ
 
---以下、順番に解説して行きます。
 
(空-七-三九)
(ア) バクティ・ヨ-ガ(特定対象の外観礼拝)からのアプロ-チ
 本当に、衆生の救済のために日夜働いておられる「観世音菩薩」(や阿弥陀如来)は実在するのだろうか? という問題です。日蓮は若い頃、こうした菩薩や如来を「作り物」だと言い、「天魔」とさえ呼びました。
 国際的には、しばしば、キリスト教の人々から 「観自在菩薩や阿弥陀仏は実在するのか?」 という質問が出されます。
(科学が著しく進歩した21世紀初頭の段階でも、宗教対話の一貫として、キリスト教側と日本の浄土教系団体が対話をしていますが、ここでも、『阿弥陀仏はそもそも実在するのか?』 というキリスト教側からの素朴な質問に対して、日本側は的確な回答を与えることができませんでした。これは「情けないこと」ですが、浄土系の人は、密教的な『本地』について見識が浅いために、本地垂迹論的に、「一元論に立脚した深遠な回答」をすることができないでいる、と評価できるでしょう。)

 ですから、ここで、この問題に決着を付けましょう。
 果たして、大乗の諸仏・諸菩薩は作り物(フィクション)なのか、実在なのか?
 この問題は、「仏教の基本」が出来ている者なら簡単に解ける問題なのです。
 「自性/無自性」概念を学んだ人からすると、答えは単純明解です。即ち、名前は何でも良いのですが(本書では仮に「大日空王主」と名付けている、そうした)「自性有る存在」は二つと存在しません。(本書の「自性」の定義参照)
 故に、「大日空王主」以外の、総ての有形なる存在(生物を含む)は「総て、無自性なる存在」でしかありません。つまり、観世音菩薩や阿弥陀仏がフィクションであろうがなかろうが、どちらにしても結局「自性無きもの」でしかないのです。よって、虚構であれ、事実であれ、全くどちらでも良いのです。どの道、「活動の真実主体」は「自性有る存在(大日空王主)」以外には存在しないからです。
 これこそが、「我見の無い見方」(=転倒しない見方)です。 (「我見」の意味については前篇第三章参照)
 
(空-七-四十)
 だからこそ、大乗仏教は、良心の咎めを感じることなく、無数の如来(仏)・無数の明王・無数の菩薩を“どんどんと創作した”のです。
 また、だからこそ、それを真に受けて、その存在を堅く信じて、それらの仏や明王や菩薩を日々信仰する者たちの眼前に、本当に如来や明王や菩薩が「有形なる姿」を身に纏って現れたし、これからも現れるのです。
 「自性有る存在=真の活動主体」は、限定が皆無なので、変幻自在です。
 地上の肉体身を持つ者が、大日空王主に「個我を献上」し、主がそれを嘉納なさるならば、主はその者を御自分の媒体(腕サック人形)として使用し始めます。(そうした存在が諸仏・如来・聖者です。)
 また、「献上された肉体身」を用いずとも、信仰者の信仰の念を因として、それに応える形で、主はどんな幻や示現や物質をも出すことができます。〔これは主の「自在な方便(便法)」即ち、主の「対機的方便」です。〕
 
(空-七-四一)
 大日空王主が「幻・示現」を対機的方便として使用した具体例を次に挙げましょう。
 空海が「強い強い信仰」を持っていたことは、入唐や帰朝の際の「航海」が当時としては命懸けであったことからも分かりますし、また、二十年の滞在が義務付けられている遣唐使の研修学生の身分にありながら、僅か一年で帰朝すること自体、掟破りで死罪に相当したにも拘らず、それでも敢えて帰朝したことからも、充分に分かるでしょう。
 そんな彼が、唐に入って、「金剛/胎蔵」両密教を修した「とても貴重な人物」である恵果阿闍梨に会うことを得て、親しく「密教の秘法」を伝授され始めると、恵果阿闍梨の二千人近い弟子たちの多くは、(人間の弱さの故に、悲しい哉)強い嫉妬心を起こして、不平不満を言い始めました。
 彼らの目からすれば、何処の馬の骨とも分からぬよそ者の空海は、「泥棒猫」の如き存在に見えたことでしょう。
 そんな折、珍賀という高弟は「ひどい悪夢」を見ます。珍賀は、外護を司る四天王から、殴る、蹴る、踏みつけるなどのお仕置をされる体験をしたのです。翌朝、珍賀は己れの非を認め、悔い改めて、他の者たちをも戒め、空海への嫉妬心を捨てる努力をしました。
 この夢は無論、究極的には大日空王主から来たものと言えます。この場合、主は外護の四天王という幻を登場させました。もしも、珍賀の夢にイエズス・キリストやパウロが登場して説法したならば、それは場違いなものとなり、ただ怪訝に思うだけになって効果がないでしょう。また、見知らぬ者から殴られたとなれば、お仕置きだとは理解しないかも知れません。だからこそ、大日空王主は珍賀が日頃から信仰している外護の四天王の幻を使用したのです。これが、人の個性と偏見に応じた、主の対機的な導き方です。

(空-七-四二)
 また、近代の大聖者シュリ・ラ-マクリシュナの場合(真-24-7、26)は、彼がヒンドゥ-教のカ-リ-女神を熱烈に信仰し、カ-リ-の出現を心待ちにしていたため、彼の熱烈な信仰に応える形で、大日空王主は、彼の眼前に「生きたカ-リ-神」を出現させ、彼と親しく会話させ、カ-リ-の口を通して彼に様々な導きを授けました。(カ-リ-女神のような“人間の形態をしていない”「異様な形態の生物」は「一種の霊的象徴」としてデザインされたものですから、実際に存在するはずがありません。にも拘らず、カ-リ-女神は出現したのです。)

 (空-七-四三)
 このように、大日空王主の「対機的な救いの御業」は超宗教的なものです。
 阿弥陀仏を信仰する者には阿弥陀仏の姿を通して主は御業を為し給い、観世音菩薩を信仰する者には観世音菩薩の姿を通して主は御業を為し給い、聖母マリアを信仰する者には聖母マリアの姿をを通して主は御業を為し給い、シヴァ神を信仰する者にはシヴァ神の姿を通して主は御業を為し給ふのです。
 故に、「玄奘法師が肉体身の観自在菩薩と遭遇した」と伝えられる「求法の旅」のエピソ-ドも単なる作り話だと軽々しく否定することはできません。
 遙かなるインドを目指して長安を出立し、やっと空恵寺に到着した時のこと、玄奘は病で臥せっているインドの僧に出会い、彼を看病します。その際、「インドに行くのであれば、このお経を唱えて行きなさい、さすればどんな災難も切り抜けられる」と言われ、般若心経が伝授されます。
 そして、苦難の末、漸くインドのナ-ランダ寺に辿り着いた玄奘は、なんと、ここで般若心経を教えてくれた同じインド僧に迎えられます。「どうしてあなたがここに?」と驚嘆する玄奘に対し、彼は 「我はアヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァなり」 と言い残して姿を消してしまいます。
 
(空-七-四四)
 大日空王主は、実に無限の方便を用いて衆生を助け、導いておられます。
 実に、大日空王主は、全宇宙の総ての動きを把握しておられます。如何なる小さな動きですら主の眼から見落とされるものはありません。雀一匹、てんとう虫一匹、蚊一匹、蚤一匹ですら、決して見落とされることはありません。そればかりか、人間の赤血球一つ、白血球一つ、そして遺伝子の塩基配列一つですら、決して見落とされることはありません!
 そうであれば、大乗仏典が 「観世音菩薩は衆生が自分を呼ぶ声を決して聞き漏らさない」 旨の教示をしても、これを「作り話」と斬り捨てるべきではないのは当然です。そこには正しい真理が内包されているからです。
 故に、「観世音菩薩」に対して、バクティ・ヨ-ガ(特定対象の外観礼拝)からのアプロ-チで信仰しても、それはそれで正しい信仰と言えます。
 
(空-七-四五)
(イ) ハンニャ-・ヨ-ガ(超対象の洞察礼拝)的なアプロ-チ
 バクティ・ヨ-ガの信仰形態もそれなりに正しいという事を(ア)で見ました。しかし、「有形なる形態」にこだわっているレベルでは「正しい空観」に達することはできません。つまり、本当に「般若ヨ-ガを実践したい」と願うならば、(有形なる形態の)「観世音菩薩」に助けに来て下さい、と祈る方法では駄目なのです。
 
 ★仏陀は偶像礼拝を禁止しました。『法と自己のみを中州(ディーパ)とせよ』というスタンスこそ、叡智のヨガのアプローチ法です。観音菩薩をスーパーマン的救世主と考えて礼拝すると、『我見 (中でも人我見)』  という邪見が混入する可能性が極めて高いのです。(詳細は、前篇第三章の2 を御覧下さい。)

 般若ヨ-ガの実践においては---
<「アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァ」と「瞑想の実践者」が一体化しなければならない>---と言えます。これが、必須の要諦です。
 そもそも、大乗仏教や密教では、「礼拝対象への集中・同化・一体化」という瞑想技法が基本技法として採用されています。
 例えば「仏説聖不動経」には「不動明王の無相の法身は(無辺の)虚空と同体なれば、衆生の心に住み給う」とあります。故に、修行者は「不動明王」を一心に瞑想することで、不動明王との完全なる一体化を願い、そうして「不動心」を会得しようとするのです。
 これと同じ事なので、「般若心経」の実践をする場合、修行者は「アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァ」を一心に瞑想することで、この菩薩との完全なる一体化を願い、そうして「正しい空観(中観)=悟りのヴィジョン」を会得しようと希求しなければならないのです。
 
(空-七-四六)
 故に、この場合「アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァ」を「観世音菩薩」という訳語で理解していては、いけません。
 だからこそ、「アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァ」の内実を---
A.「遍く(絶対・相対)両界を自在に観想する(という)悟りへの発心堅固な勇者」 即ち 「観自在菩薩」
B.「存在本源の光輝を遍く看取・観照する悟りへの発心堅固な勇者」即ち「観普明菩薩」
  ---と理解した上で、修行者自身が
① 「悟りへの発心堅固な勇者」 と成るように強く願って、そのように努め、       
② 「遍く(絶対・相対)両界を自在に観想する」ことができるように強く願って、そのように努め、また、
③ 「存在の本質の光輝を遍く看取する」ことができるように強く願って、そのように努めること
  ---こうした態度が重要不可欠になるのです。
 
(空-七-四七)
 従って、般若ヨ-ガの瞑想法においては、「アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァ(観自在菩薩・観普明菩薩)」という存在は、一つの「雛型」だと言えます。
 この「雛型の三条件」と真に一体化する者は、(悟りに入る以前であっても)誰でもアヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァである、と言って良いでしょう。
 チベット仏教のダライ・ラマの地位に就く者は「観自在菩薩の化身」と言われます。そして、現十四世ダライ・ラマの生活を見れば分かるように、彼は実に見事に、今挙げた「一体化のための基本姿勢(三要件)」①~③を充たしています。(実際に、悟ってしまえば「聖者」になりますが、観自在菩薩と呼ばれるためには「成仏の聖者」であることまでは必要ない、と言うべきでしょう。
 但し、バクティ-・ヨ-ガの立場からは、観自在菩薩を衆生を救うス-パ-マンと考えてこれに助けを求めるのですから「成道の大聖者」と解することになるでしょう…。しかし、ここでは「叡智のヨ-ガ」の実践の立場からの話をしているわけです。)
 
(空-七-四八)
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