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  <title>般若心経と写経</title>
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  <description>写経といえば般若心経。今や写経の一般的な物となった般若心経。その般若心経を写経するにあたってその意味を理解することが大切です。</description>
  <lastBuildDate>Thu, 15 Jan 2009 03:16:53 GMT</lastBuildDate>
  <language>ja</language>
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    <title>■知恵と救いの『般若心経』 </title>
    <description>
    <![CDATA[　『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』ほど、一般によく知られよく唱えられる仏典はありません。日本の仏教各宗では日蓮宗や浄土真宗を除きどこでもこのお経を常用経典として、ご葬儀やご法事に、護摩祈願やご祈祷に、巡礼やお遍路の際に、檀信徒の日常のお勤めでも、お唱えします。また解説書の出版や雑誌の特集ものも多く、高田好胤師や松原泰道師や瀬戸内寂聴氏やひろさちや氏などの「心経講話」「心経解説」ものがよく読まれています。 <br />
　しかし残念なことに、この方々の出版物も、これまで公表された仏教学者や学僧の解説書も、すべて（と言っても過言でないほど）『心経』の本当の姿や内容を伝えていませんでした。敢えて言えば「ダメ」「デタラメ」「ごまかし」の類です。 <br />
<br />
　なぜか。理由は簡単です。どなたも『心経』で最もだいじな最後の結論の部分、つまり「般若波羅密多　是大神咒　是大明咒　是無上咒　是無等等咒　能除一切苦　真実不虚故　説般若波羅密多咒　即説咒曰　掲諦　掲諦　波羅掲諦　波羅僧掲諦　菩提　薩婆賀」のところのとくに「大神咒　大明咒　無上咒　無等等咒」をいい加減に解釈したり、「掲諦　掲諦・・・」の意味がわからないため「行ける者よ、（彼岸に）行ける者よ」などという意味不明の解釈で逃げていて「なぜ、般若波羅密が咒なのであって、一切の苦を能く除くのか」というこのお経の最大のテーマに答えられていないのです。これは『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』の解釈としては尻切れトンボのごまかしです。 <br />
<br />
　しかしそれはある意味でもっともなこととも言えます。この『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』は、<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0f-22" title="サンスクリット語"><strong><u>サンスクリット語</u></strong></a>学を相当にやった人でないとわからない、インドのタントラの伝統たとえばマントラの言語感覚をわかっている人でないとわからない、インドの仏教思想史をきちんと学んだ人でなければわからない、大乗と密教の勉強をかなりした人でなければわからない、のですが、解説書を書いた人たちにその該当者はどうもおられないからです。 <br />
<br />
　失礼ですが、瀬戸内寂聴さんなどに『心経』はわかりません。よく僧形でテレビに出演し、わかったような仏教解説をしますが、あれはテレビ局が視聴率を高めるために「タレント」を使うためであって、瀬戸内さんがつけている天台宗の輪袈裟が「この方は本当に仏教を勉強した人だ」と証明しているわけではありません。彼女はテレビでそう装うのは上手ですが、彼女の解説がかえって仏教の深遠な教えに誤解の種を撒くことになっているとしたら「越法の罪」ものです。 <br />
<br />
　さきほど密教の研究をかなりした人と書きました。最後の「掲諦　掲諦・・・」はマントラつまり真言だからです。さらにもっとだいじなことは、弘法大師空海がこの『心経』の解説書『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>秘鍵』を書き、破体『心経』という書を残して経文の漢字まで梵字化（マントラ化）している、ということです。 <br />
　近代仏教学の学術の世界では、『心経秘鍵』を知っている真言系の学者まで「あの空海の解釈は密教独特の解釈であって仏教学界に通用する解釈ではない」という説に反論できないまま鵜呑みにしてきました。なぜか空海の『心経秘鍵』は「心経ばやり」のなかでも光を当てられませんでした。 <br />
<br />
　そういうことを全部わかった上で、このたび<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0f-22" title="サンスクリット語"><strong><u>サンスクリット語</u></strong></a>も密教も空海もわかっている宮坂宥洪師が、空海の『心経秘鍵』をベースに新しい『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』解釈を試み、もののみごとにこのお経の全体像とその主題の解明をされました。この日本にやっと最初から最後まで「整合性」のある「心経解釈」が誕生しました。これではじめてヨーロッパやアメリカの知識人と共有し議論できる仏教思想のデータベースが完成したのです。 <br />
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    <category>知恵と救いの般若心経</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%81%A8%E6%95%91%E3%81%84%E3%81%AE%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C/%E2%96%A0%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%81%A8%E6%95%91%E3%81%84%E3%81%AE%E3%80%8E%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C%E3%80%8F%20</link>
    <pubDate>Thu, 15 Jan 2009 03:16:53 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>般若心経一番人気の秘密</title>
    <description>
    <![CDATA[『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』今、日本人に一番人気のある有名なお経でしょう。私ども曹洞宗のお寺でも読経しない日はありませんし、浄土真宗と日蓮宗を除く他の宗派でも、読経するようです。また写経と言えば『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』というくらいポピュラーです。さらに、少し大きな書店に行けば、宗教書や仏教書のコーナーには必ず『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』に関連した書籍が置いてあります。『私の<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』、『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>を読む』、『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>に学ぶ』、『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>講義』などといった題名が目をひきます。著者も、高僧や学者、科学者、作家、漫画家、弁護士、経営 コンサルタント、新宗教の教祖など多彩な人物が名を連ねています。<br />
<br />
これほどにも一般民衆に愛され、話題にされるお経は他にありません。『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』の人気の秘密はいったいどんなところにあるのでしょうか。<br />
<br />
まず、短いことが理由の一つに上げられると思います。私どもが日頃読誦している『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』は、題名を入れても漢字二百七十六文字しかありません。もちろん、『<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>』よりも短いお経もいくつかあります。たとえば、『舎利礼文』や 『延命十句観音経』はずっと短いお経です。けれども短すぎてもあまりありがたくはないのではないでしょうか。長すぎず、短すぎずで、忙しいせっかちな現代人にはちょうどよい長さなのかもしれません。<br />
<br />
ところが、短いから内容が浅薄かというと決してそんなことはありません。仏教の教えの中でも最高究極の「空」について述べられています。<br />
<br />
このあたりが現代日本においてはもちろんのこと、古来中国あるいは日本で盛んに信仰されてきた理由だと思います。<br />
<br />
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    <category>般若心経一番人気の秘密</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C%E4%B8%80%E7%95%AA%E4%BA%BA%E6%B0%97%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C%E4%B8%80%E7%95%AA%E4%BA%BA%E6%B0%97%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86</link>
    <pubDate>Thu, 08 Jan 2009 06:01:13 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>度一切苦厄の意味</title>
    <description>
    <![CDATA[　どの梵語原本にもありません。漢訳者の挿入です。読誦経典である「<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>」に翻訳者独自の言葉を挿入するなど、まことに畏れ多いことです。清廉高潔な者ほど、こうした行動は慎み、躊躇するものです。<br />
　にも拘らず、確信と勇気を持って、翻訳者自身の言葉を挿入している点に、漢訳者の並々ならぬ「思い入れ」を見て取ることができるでしょう。<br />
　－－－「度」について。<br />
　「度」は「渡」と同じ意味です。故に、「度＝渡」という言葉は「渡す（他動詞）／渡る（自動詞）」の両義に解することが可能です。<br />
　先ず、「渡る（自動詞）」の意味に解する場合は「超越する」という意味になります。<br />
　何故なら、実際に何処が「物質的な場所」を渡るのではなく、霊的な意味で彼岸へ渡ろうとする、即ち、古い自己を超越して行き、煩悩と邪見を超越して行き、「解脱～成仏」という「完全なる超越」を達成しようとするのが、仏道修行だからです。<br />
　そして、この解釈こそが、漢訳者の意図に最も適合した「正しい解釈」です。<br />
　尚、「一切の苦厄を超越した」との訳文を、「一切の苦厄を超越して仕舞われた」というように「敬語化」して訳すべきではないし、こうした敬語で読誦・朗誦すべきではありません。何故なら、「観自在菩薩」と一体化しようとする般若ヨ－ガ（空－七－四五以下）の瞑想法を実践する場合、「観自在菩薩」に対して敬語を使って「自分と分離して扱う」と、観自在菩薩と一体化できなくなってしまうからです。<br />
　<br />
（空－七－五七）<br />
　次に、「渡す（他動詞）」の意味に解する場合は、（衆生を）「救済する」という意味になります。<br />
　高神覚昇氏は、「<a href="http://astore.amazon.co.jp/tomhon0c-22" title="般若心経"><strong><u>般若心経</u></strong></a>講義」（角川文庫）の第二講で、次のように説いています。<br />
「『五蘊はみな空なりと照見せられて、ついに一切の苦厄を度せられた』というのであります。すなわち、一切の苦というものを滅して、この世に理想の平和な浄土を建設されたというのであります」（３２頁）と。<br />
　この見解は「アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァ」をバクティ－・ヨ－ガ（特定対象の外観礼拝）のアプロ－チで信仰している立場です（空－七－三九以下）。<br />
　ス－パ－マンである観世音菩薩が衆生救済のために地上に降臨し、釈尊も成し得ず、イエズス・キリストも成し得なかった「地球全土の浄土化」をたった一人でやってしまった、という解釈です。（何たること！　これを無批判に肯定する感覚は何でしょう！）<br />
　特定対象讃美（この場合、観音信仰）もここ迄来ると異常でしょう。異常なのですが、残念ながら、日本の僧侶には（感情に任せて）この見解を採る者が多いのです。般若ヨ－ガの本質や、「叡智による否定の利剣」が何たるものか、全然分かっていないのです。<br />
<br />
（空－七－五八）<br />
　真の仏教は、修行者の「行」と別次元の「他力」信仰を教えるものではありません。<br />
　飽く迄も、修行者と不可分の「中力」（★一－十－八、九★）を教え、「中力による賊我の滅却」を教えるものです。これぞ、理性と叡智の道です。<br />
　仏教の「四諦（苦・集・滅・道）」（空－七－★百六十八★以下）を正しく理解する者ならば、過去と現在の悪業（悪いカルマ）が「綺麗さっぱり精算」されない限り、苦と厄難から逃れることはできない、と分かるはずです。<br />
〔それなのに、天から観世音菩薩が飛んで来ると、それらの「積み重ねた悪業（カルマ）」を全部吹き飛ばして、チャラにしてくれる、とでも言うのでしょうか。〕<br />
　般若ヨ－ガの実践者は、「行」によって「個我（五蘊）の無自性」を自覚・会得して「四源罪」（前篇第四章）から離れ、それによって「悪業の生産停止」に到る、という手順を踏みます。この手順を省略することはできません。「そんなことしなくでも、観世音菩薩が何とかしてくれるし、インスタントな悟りをプレゼントしてくれる」－－－このようには、夢にも考えてはいけません。<br />
　こうした考えは、安易で怠惰で自分勝手な「悪魔＝邪心（賊我）」の考えです。<br />
　<br />
（空－七－五九）<br />
　－－－以上、「度一切苦厄」の「度」は（他動詞の）「救済した」という意味ではないので、「観自在菩薩が衆生の一切の苦厄をお救い下さった」と読んではいけません。<br />
　飽く迄も－－－般若ヨ－ガの修行者自身が、≪個我（五蘊）無自性≫　という真理を会得した暁にこそ－－－、身心脱落して「解脱」に到り、悪業の応報からも「超越」することを得るのです。この一文はそうして「法（ダルマ）」を教えるものです。<br />
　この「正しき法」を念頭から離さないならば、困難があっても、途中で挫けそうになっても、ひたすら苦厄からの解脱（個人の救いの達成）を願い、更に一層の般若ヨ－ガに勤しむ「力の素」にはなることでしょう。<br />
　<br />
（空－七－六十）<br />
　尚、「苦厄」は、苦しみと厄難の意味です。両者とも、避けようとしても不可避的に振りかかって来るものです。因果応報の法則が厳然として存在する以上、「悪業」を為してしまったならば、その自動的反作用としての「苦厄の到来」は覚悟しなければなりません。<br />
　覚悟した上で、これから以降の悪業を産出しないよう「有為の滅却」に努め、利他行に励み、また、過去の悪業の報いについても、「移殃の儀」（星－１１－２３）の「法理」を学んで、振りかかる苦厄を最低限度に留めるべく、神仏の御加護を願い求めるなどして、そうして順次、「苦厄」を乗り越えて行こうと精進するのが、修行者の正しい信仰のあり方だと言えます。<br />
　<br />
　<br />
（以上で、漢訳版の心経の　第一部　までの　解説を終了します。）<br />
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]]>
    </description>
    <category>[度一切苦厄の意味]</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/-%E5%BA%A6%E4%B8%80%E5%88%87%E8%8B%A6%E5%8E%84%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3-/%E5%BA%A6%E4%B8%80%E5%88%87%E8%8B%A6%E5%8E%84%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3</link>
    <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 07:45:51 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>皆空の意味</title>
    <description>
    <![CDATA[　「五蘊をみな＜空＞と照見した」という一文の意味は、「空」の三義を当てはめた和訳（空－七－十八）で示した通りです。<br />
　漢訳で「皆空」としている以上、「空」の三義（空－七－四）をそのまま当て嵌めた解釈も当然可能と言えます。これも立派な「真理命題」です。よって、「皆空」という漢訳が誤訳だと断じることはできません。<br />
　しかし、梵語原文と対照すれば分かる通り、原文では「五蘊をシュ－ニャタ－（空）」とはと言っていません。態々（わざわざ）「スヴァバ－ヴァ・シュ－ニャ－ン（自性がゼロの）」という言い回しを選択し、「空」の三義の掛詞を排除して、「五蘊は総て無自性なり」と、限定的な表現をしているのです。この点を、しっかり押さえて置かく必要が有ります。<br />
　（この後の「色即是空」の漢訳で分かる通り）恐らく、漢訳者は「空に三義有る」とは認識していなかったのでしょう。多分、「空＝無自性」と、一義的に解していたのです。だからこそ、この後の「色不異空～空即是色」の処では、原文が「空の三義」に対応した「三段の展開形」になっているのに、平然と大胆にも、それを一段削ってしまい、漢訳では「二段物」にしてしまったのでしょう。<br />
　一方、インド人の梵語原文制作者は「空に三義有り」と明確に認識しながら、何故、敢えてここでは「スヴァバ－ヴァ・シュ－ニャ－ン（無自性）」という一義に限定した表現を用いたのでしょうか。<br />
　これには、インド独特の文化的背景が影響していると見るべきです。<br />
　ヴェ－ダやウパニシャッド聖典など、多数の聖典を生み出して来た（霊性の先進国たる）インドでは、当時から現代に至るまで、「我は神なり。神は我なり」「梵（ブラフマン）は我なり。我は梵（ブラフマン）なり」と臆面もなく宣言する「ニセのグル（聖者・導師）」が掃いて捨てるほど存在します。こうしたニセグルは自分を「神の化身（アヴァタ－ラ）」と称し、弟子たちに自分を礼拝させ、好い気になっています。<br />
　こうした「玉石混淆、聖俗混沌、味噌糞一緒」というインドの宗教文化の中にあっては、ニセのグルと真の大聖者とを明確に識別する事が、取り分け重要になります。<br />
　そして、「その識別の分水嶺」－－－それこそが「五蘊無自性」の自覚の有無なのです。この自覚の中に住する者は、煩悩を超越し、「自性有る存在」だけの「ニミッタ・マトラム」（単なる道具）（★一－二二－五二★）に成ります。<br />
　<br />
（空－七－五五）<br />
　つまり、混沌としたインド文化の中で、漢訳文に有るような「空の三義」の掛詞のまま、「五蘊皆空」と経典で表現してしまっては、「我はブラフマン・大日空王主なり」という主張が「ニセのグル」によって、悪用・濫用されることは火を見るより明らかです。そこで、梵語原文では、敢えて「五蘊無自性」という表現を使ったのだと言えます。<br />
　最近の日本でも、ヒンドゥ－文化の流入と共に、その上辺だけを真似た「厚顔無恥なニセグル・ニセ釈尊」が何人も登場するようになって来ました。こうした状況を踏まえると、漢訳のように「五蘊皆空」と「空」の語を使うことを意識的に避け、梵語原文に沿って、「五蘊、これらには正に自性が無い」とか「五蘊、それらのいずれにも自性が無い」と訳して、これで読誦した方が誤解が起こる可能性が少なく、ずっと優れていると言えます。<br />
　<br />
（空－七－五六）<br />
<br />
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    </description>
    <category>皆空の意味</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/%E7%9A%86%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3/%E7%9A%86%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3</link>
    <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 07:45:07 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>五蘊の意味</title>
    <description>
    <![CDATA[　パンチャ・スカンダ－スの訳です。パンチャは数字の「五」の意味。スカンダ－スは「集まり」の意味。よって、集まりを意味する「蘊」の語が当てられています。<br />
　ここで言う「五つ集まり」とは「色・受・想・行・識」を意味します。この事は、心経の後の文で具体的に示されています。<br />
　さて、ここで問題となるのは、「五蘊」の範囲です。<br />
　既に示した「真髄和訳」（空－七－十九）では－－－<br />
＜（自分の体を）「五要素の集合体」と看破し＞－－－としてあります。つまり、「個我の五蘊」に限定した理解です。この場合、観自在菩薩は、「人我見」（前篇第三章参照）を克服して「人無我」の真理を悟った、という意味になります。<br />
　一方、「般若心経・金剛般若経」（中村元・紀野一義訳注　岩波文庫）の和訳では－－－＜存在するものには五つの構成要素があると見きわめた＞－－－との訳になっています。つまり、人間の「個我」に限定せず「世界全体、総ての存在一般には～」と最広義に広げて解釈しているのです。この場合、観自在菩薩は、「人我見」のみならず「法我見」をも克服して「人無我＋法無我」の真理を悟った、という意味になります。<br />
　<br />
（空－七－五一）<br />
　高神覚昇氏も、「般若心経講義」（角川文庫）の第二講で次のように説いています。<br />
「主観も客観も、一切の事々物々、みなことごとく、五蘊の集合によってできているというのが、仏教の根本的見方でありますから、いわゆる物心一如、または色心不二の見方が、最も正しい世界観、人生観である、ということになるわけであります」（３４頁）と。<br />
　このように、高神氏は「一切の事々物々、みなことごとく『五蘊＝色受想行識』で出来ている」と説いています。<br />
　ひどい話です。目茶苦茶も甚だしい話です。<br />
　例えば、石ころに、「受」（感覚受容器官）があるのでしょうか。「想念」が有るのでしょうか。意志があるのでしょうか。<br />
（尚、高神氏は、同じ第二講で「度一切苦厄」の解釈についても、とんでもない解釈を開陳しています。尤も、日本の多くの僧侶、時に阿闍梨レベルでもこれと同じ解釈をしているので、一種の悪しき流行に乗った解釈と言えます。「語義解析10」空－七－●●参照）<br />
　<br />
（空－七－五二）<br />
　これに較べ、岩波文庫の和訳－－「存在するものには五つの構成要素がある」－－という言い回しは、これよりも思慮深い（悪く言えば、巧妙な官僚的言語遊戯に長けた）表現です。<br />
　石ころに「受・想・行」などが有ることになってしまうような“ズボラな”表現はしないのです。そして、飽く迄も－－－存在一般を眺めると、一般的命題として、存在には「五つの構成要素」が数えられる－－－とだけ言うことで、五要素の「どれか一つ」でも有ればそれで良い、という表現法をしているのです。だから「集合」とか「集まり」という訳し方は意図的に回避しているのです。（実に狡賢いワザを使っています）<br />
　よって、岩波文庫の和訳を逆に漢訳するならば「五蘊」にはなりません。「集まり」である事を回避しているので、「五衆」と訳すべきことになります。集まりではなくて、五つのメンバ－のどれか、という意味です。<br />
　<br />
（空－七－五三）<br />
　では何故、名だたる学者先生が、このような「変な和訳」をするのでしょうか。<br />
　それは、観自在菩薩が悟った「その悟り」を「完全な悟り」即ち「我見全般（人我見＋法我見）を超越した悟り」だと、“梃子（ﾃｺ）でも”位置付けたいからでしょう。<br />
　実に、学者らしいマインドの強い態度です。<br />
　しかし、真の般若ヨ－ガの実践者であるならば、原文のパンチャ・スカンダ－スを素直に「五蘊」と訳し、「五蘊」とは「人間の個我」のみを意味する、と（限定的に）解釈しても、恬淡としていられます。<br />
　何故なら、「真の悟り」とは、先ず「人我見」を克服して「人無我＝個我無自性」を悟り、それ故に、その連鎖的拡張として、次に「法我見」を克服して「法無我＝諸法無自性」を悟るに到るからです。<br />
　この「二段階深化」の順序は、決して逆にはできません。先ず、脚下を照顧して、それから外的な諸法の正見に到るのです。<br />
　－－－例えば、ゴリラやチンパンジ－には、彼ら独自の五蘊（色受想行識）が有ります。しかし、般若ヨ－ガの実践者は、ゴリラを手で触ってゴリラの「色（物的肉体）を無自性なり」と看破するのではありません。般若ヨ－ガの実践者は、ゴリラでもないのに、ゴリラの受（感覚）や想（想念）が「無自性である」と、何故分かるのでしょうか。<br />
　これで分かる通り、人は「（自分の）個我の無自性」を看破し切った時にだけ、外界の諸物・諸現象の無自性についても真の意味で「内的確証を得る」ことができるのです。<br />
　これが「法」であり、不動の順序です。<br />
　「個我の意識」を超越して「無限定の普遍純粋意識」に触れる（又は達した）した時にのみ、その連鎖的効果によって初めて外界の諸物・諸現象の無自性も真に大悟するのです。<br />
　従って－－－梵語原文で「スカンダ－ス（集まり）」と表現している以上、ここでは「人間の、それも“瞑想者自身”の個我の五蘊」を無自性と看破した、という解釈だけが正しい理解だと言えます。<br />
　ですから、こうした「人無我＝個我無自性」に限定した解釈で、充分なのです。万物万象にまで拡大した「一般命題」　として訳すのは、大間違いです。<br />
　<br />
（空－七－五四）<br />
<br />
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]]>
    </description>
    <category>五蘊の意味</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/%E4%BA%94%E8%98%8A%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3/%E4%BA%94%E8%98%8A%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3</link>
    <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 07:44:08 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>照見</title>
    <description>
    <![CDATA[　原文では「ヴヤヴァロ－カヤティ　スマ」（看破した）、及び　「パシャヤティ　スマ」（見抜いた）という同種の動詞の過去形が二つ使われています。<br />
　梵語原文を直訳すると－－－＜（観自在菩薩は）（個我を←省略されている）五つの集まりと看破し、それらが正に「自性ゼロ」と見抜いた＞－－－という訳になります。<br />
　つまり、原文では、①個我が五蘊で出来ている　と看破した後、②その五蘊がすべて無自性　と看破したわけで、「二段階の洞察の深化」が表現されているわけです。<br />
　しかし、漢訳では「この二段階深化」を省略して「照見・五蘊皆空」と一発洞察の形になっています。<br />
　尚、「照見」は「正見」に通じます。「正見」は自力では出来ず、光に照らされる体験を得て初めて達成されるもの、との認識が、漢訳者に有ったからでしょう。（イグナチオ・デ・ロヨラにも、「照明体験」と言われるものがあります。後篇第六章参照）<br />
　こうした光明体験は、修行者の思い通りに得られるものではありません。修行生活中や瞑想中に、盗人が来るように不意に突然向こうからやって来るものです。正に「照らされて見る」のですから、「照見」の訳語は（意訳ですが）実に適切な言葉と言えましょう。<br />
　「真髄和訳」では、「照見」のニュアンスを殺さないように配慮しつつ、梵語原文通りの「洞察の二段階深化」をしっかり訳出しています。<br />
　<br />
（空－七－五十）<br />
<br />
<br />
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    </description>
    <category>照見</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/%E7%85%A7%E8%A6%8B/%E7%85%A7%E8%A6%8B</link>
    <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 07:43:03 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>行深般若波羅蜜多時の意味</title>
    <description>
    <![CDATA[　「行～時」がチャルヤ－ム・チャラマ－ノ－の訳です。チャルヤ－（行）の対格（目的語形。業格とも言う）がチャリヤ－ムで「行を」の意味です。<br />
　チャラマ－ノは「行ずる」という動詞の現在分詞。よって、チャルヤ－ム・チャラマ－ノ－で「（ヨ－ガ）行を行じている時に」の意味になります。漢訳は単に「行～時」としています。<br />
　梵語「ガンビ－ラ－ヤ－ム」は「深い・深遠な・深妙な」という意味の形容詞で、この漢訳が「深」です。これは「プラジュニャ－（般若）」に掛かる形容詞です。（初心者の中には、「行深」で「行を深く行ずる」意味だと誤解する人がいます。要注意です。）<br />
　原語「ガンビ－ラ－ヤ－ム」は長い単語でその深みを表現しているので、短い「深」一語の漢訳よりも原語重視で、少々意訳気味でも「真髄決訳」（空－七－十九）のように「深甚霊妙なる」と訳すのが相当でしょう。深甚霊妙この上ないものが「般若」だからです。<br />
　前述の通り、「波羅蜜多」は「完璧な」の意味なので、「行深般若波羅蜜多時」で　≪深甚霊妙で完璧なる般若、のヨ－ガ行（＝結合行）を行じている時に≫　という意味になります。<br />
　そして、この場合のヨーガ行（結合行）は、完全究極叡智（般若）への「没入行・帰入行」の意味になります。<br />
　<br />
（空－七－四九）<br />
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    </description>
    <category>行深般若波羅蜜多時の意味</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/%E8%A1%8C%E6%B7%B1%E8%88%AC%E8%8B%A5%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%A4%9A%E6%99%82%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3/%E8%A1%8C%E6%B7%B1%E8%88%AC%E8%8B%A5%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%A4%9A%E6%99%82%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3</link>
    <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 07:41:59 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>観自在菩薩の意味</title>
    <description>
    <![CDATA[　アヴァロ－キテ－シュヴァラ（観自在）ボ－ディサットヴァ（菩薩）の漢訳が「観自在菩薩」です。<br />
　先ず、「菩薩」の語義から解説しましょう。<br />
　何故、ボ－ディサットヴァで「菩薩」という訳になるのでしょうか？<br />
　「ボ－ディサットヴァ」のパ－リ語訛りが「ボ－ディサッタ」です。<br />
　これをそのまま漢字に音写すると「菩提薩捶」となりますが、これを略して「菩薩」としました。（「国有鉄道」を「国鉄」と略して言うのと同じ省略法です）<br />
　「菩薩」の意味には諸説あるも、その本質をズバリ一言で表現すると－－－<br />
　<br />
＜ボ－ディ（悟り）（に向かう）＋サットヴァ（純心抱く勇者）＞－－－の意味です。<br />
　では何故、こう言えるのでしょうか。<br />
　ボ－ディは、ブドゥ　　　　（目覚める）の派生語で「目覚め＝本覚＝悟り」の意味。<br />
　サットヴァは多義的言葉です。語源的には、アス　　　（在る）の派生語で、第一に「存在」又は「生命有るもの＝衆生・有情」の意味です。また、アス（在る）の派生語サット　　　が「善い、真の」という意味なので、サットヴァで「純真な心、変わらぬ心、決定心、堅固な心、大志、勇気」の意味にもなります。<br />
　また、サトヴァン　　　　　には「勇者、戦士」の意味が有ります。そこで、自分たちのことを「悟りに向かう勇者」としても位置付けることを願った大乗の信徒たちが、サトヴァンとの「掛詞」として「サットヴァ」（大志抱く存在）を使用したと解すべきです。<br />
　従って、ボ－ディサットヴァで「悟りに向かう純心（発心）堅固な勇者」即ち、簡略化して－－－＜悟りへの発心堅固な勇者＞（空－七－二六の和訳の通り）－－－となります。<br />
　「発心」とは、一念発起という言葉も有る通り、聖なるなる渇仰心の一念を発起させた心のことです。「発心」こそ純質なる心（サットヴァ）です。<br />
　これで分かる通り、サットヴァには「聖なる渇仰心」の意味も有ります。聖なる渇仰心を大乗仏教では「菩提心」と言います。「ボ－ディ（菩提）＋チッタ（心）」で「悟りを求める心」の意味です。「発菩提心」略して「発心」とも言います。<br />
　この「ボ－ディ・チッタ」（発心）を抱きつつ諸々の困難に立ち向かって行く「勇者」こそが「菩薩（ボ－ディサットヴァ）」です。<br />
　「発心＝菩提心」を捨てることなく、発心の勇者として生活して行くならば、その先には必ず「悟り」というゴ－ルが待っています。（これは万人に当て嵌まる「法」です。）<br />
　<br />
（空－七－三三）<br />
　ところで、「般若心経・金剛般若経」（岩波文庫　中村元・紀野一義訳注）では、ボ－ディサットヴァを単に「求道者」と訳しています。しかし、これでは弱過ぎて「ボ－ディサットヴァ」の真義が、誰の心にも全然響かないのではないでしょうか。<br />
　また、「バウッダ」（小学館　中村元・三枝充●著）の中で三枝博士は、ボ－ディサットヴァとは「智も徳も行も、すべてに傑出し、現在はまだ仏ではないけれども、必ず仏となることの確定している候補者」と定義しています。（三枝説）<br />
　しかし、原初の大乗仏教徒たちは自分たちを「菩薩と自称していた」事実を看過してはなりません。彼らは決して、三枝説のようなマインドの強い定義を念頭に置きながら「菩薩」と自称したわけではないはずです。（「単なる学者としての傍観者的見解」と「実際の使用者」との間には、言葉のニュアンスに重大なズレが有ると言うべきです。）<br />
　従って、前述の通り－－－＜悟りへの発心堅固な勇者＞－－－との訳が、語義に忠実であり、尚且つ、こう自称する人々の心にも響く「最も適切な解釈」と言えましょう。<br />
　<br />
（空－七－三四）<br />
　次に「観自在」の語義を解説します。<br />
　何故、「アヴァロ－キテ－シュヴァラ」で「観自在」という訳になるのでしょうか。<br />
　アヴァは「遍く、及ばぬところのない」という意味。ロ－キタ　lokita は、ロカ loka （注視する、看取する）の過去受動分詞で「隅々まで看取した」という意味。<br />
　これに「～する能力の有る者、自在者、王」の意味のイシュワラ　isvara　を結合させて「アヴァロ－キテ－シュヴァラ」になったのだろう、と解釈するならば、イシュワラを「自在」と訳して「観自在」という訳になります。<br />
　一方、「イシュワラはヒンドゥ－教で用いる言葉なので仏教では用いないだろう」と考えるならば、「アヴァロ－キタ＋スヴァラ」の複合語と解することも可能です。<br />
　スヴァラ　svara には「音声、響き、（群衆の）ざわめき」の意味がありますし、「ロカloka　　」には「世界」の意味もあります。<br />
　そこで、「観世音」略して「観音」という訳が出て来ます。世界の人々の憂悶の声やざわめきを遍く「看取＝感取」した菩薩、という解釈です。（しかし、この解釈からすると、ロカは過去受動分詞にする必然性はないし、寧ろ、そうしない方が良い、と言えます。）<br />
　観音経は「人々の音声を看取する菩薩」という解釈で制作されたお経です。このお経の存在によって、観音菩薩が世の人々の「憂悶の声」を感取して、人々を救いに来て下さる、という信仰が確立しました。<br />
　<br />
（空－七－三五）<br />
　では、本当の処、最初に「アヴァロ－キテ－シュヴァラ」と命名した大乗仏教徒は、この名前にどんな意味を込めていたのでしょうか。<br />
　思うに、最初の命名者は「アヴァロ－キタ＋スヴァ ﾙ」の複合語として、この名を生み出したと解すべきでしょう。<br />
　スヴァ ﾙ　　　　とは、「光明・光輝」の意味です。この「光」とは、「存在の光輝＝神の光＝本地の叡智の光」の意味です。<br />
　つまり－－－＜（存在の本質の）光輝を遍く看取した菩薩＞－－－これぞ、アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァの本義だと言えます。<br />
　元々、動詞「ロカ（見る）」の中には、「光を求める」ニュアンスが入っています。何故なら、光無くして見ることはできないからです。ア－ロカ－ルティン　　　　　　は「求光明」とも漢訳されます。<br />
　「万物万象の存在の本質」即ち「自性在る存在」の光明を求め求めて「瞑想行」を実践し、「その光輝を遍く看破することを渇望する菩薩」－－－それが、アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァなのです。<br />
　従って、言葉の本義に基づいて、新たに漢訳し直すならば－－－<br />
＜観“在光”菩薩、　　観“遍光”菩薩、　　観“普光”菩薩、　　観“普明”菩薩＞－－－等々ということになるでしょう。<br />
　<br />
（空－七－三六）<br />
　しかし、「観自在菩薩」という名称は既に余りにも浸透し切ったものなので－－－<br />
＜「存在本源の光輝を遍く看取することを渇望する菩薩」即ち「観普明菩薩」は～＞－－－（空－七－★★参照）という和訳を全面に持って来るならば、多くの日本人がびっくり仰天して、拒絶反応を起こしてしまうでしょう。故に、本義に忠実な直訳は飽く迄も二次的・補完的和訳の位置に留まらざるを得ません。<br />
　そこで、「観自在」という言葉を活かしながら、本義を殺さないように翻訳する必要が出て来ますが、この作業は然程（さほど）困難なものではありません。何故なら－－－<br />
＜「（絶対／相対）両界を自在に観想することを渇望する菩薩」即ち「観自在菩薩」は～＞－－－とすれば良いからです。<br />
　この和訳は「アヴァロ－キテ－シュヴァラ」の本義から自然に流出して来る訳だとも言えます。というのも、「『自性在る存在』（絶対界）の光輝を看取・観照する菩薩＝観普明菩薩」は必ず「相対界／絶対界」両界を自在に観想する「中観の境地」に達するからです。<br />
　<br />
（空－七－三七）<br />
　以上、アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァを－－－<br />
　<br />
　　「絶対／相対」両界を自在に観想する、という「悟り」への発心抱く勇者<br />
　　存在の本質の光輝を遍く看取する、という「悟り」への発心抱く勇者<br />
　<br />
　と理解するならば、この名称の内実をしっかり把握したことになります。<br />
　<br />
（空－七－三八）<br />
　その他、「観自在菩薩」を巡っては、次の二つのポイントが有ります。<br />
　<br />
（ア）　バクティ・ヨ－ガ（特定対象の外観礼拝）からのアプロ－チ<br />
（イ）　ハンニャ－・ヨ－ガ（超対象の洞察礼拝）的なアプロ－チ<br />
　<br />
－－－以下、順番に解説して行きます。<br />
　<br />
（空－七－三九）<br />
（ア）　バクティ・ヨ－ガ（特定対象の外観礼拝）からのアプロ－チ<br />
　本当に、衆生の救済のために日夜働いておられる「観世音菩薩」（や阿弥陀如来）は実在するのだろうか？　という問題です。日蓮は若い頃、こうした菩薩や如来を「作り物」だと言い、「天魔」とさえ呼びました。<br />
　国際的には、しばしば、キリスト教の人々から　「観自在菩薩や阿弥陀仏は実在するのか？」　という質問が出されます。<br />
（科学が著しく進歩した２１世紀初頭の段階でも、宗教対話の一貫として、キリスト教側と日本の浄土教系団体が対話をしていますが、ここでも、『阿弥陀仏はそもそも実在するのか？』　というキリスト教側からの素朴な質問に対して、日本側は的確な回答を与えることができませんでした。これは「情けないこと」ですが、浄土系の人は、密教的な『本地』について見識が浅いために、本地垂迹論的に、「一元論に立脚した深遠な回答」をすることができないでいる、と評価できるでしょう。）<br />
<br />
　ですから、ここで、この問題に決着を付けましょう。<br />
　果たして、大乗の諸仏・諸菩薩は作り物（フィクション）なのか、実在なのか？<br />
　この問題は、「仏教の基本」が出来ている者なら簡単に解ける問題なのです。<br />
　「自性／無自性」概念を学んだ人からすると、答えは単純明解です。即ち、名前は何でも良いのですが（本書では仮に「大日空王主」と名付けている、そうした）「自性有る存在」は二つと存在しません。（本書の「自性」の定義参照）<br />
　故に、「大日空王主」以外の、総ての有形なる存在（生物を含む）は「総て、無自性なる存在」でしかありません。つまり、観世音菩薩や阿弥陀仏がフィクションであろうがなかろうが、どちらにしても結局「自性無きもの」でしかないのです。よって、虚構であれ、事実であれ、全くどちらでも良いのです。どの道、「活動の真実主体」は「自性有る存在（大日空王主）」以外には存在しないからです。<br />
　これこそが、「我見の無い見方」（＝転倒しない見方）です。　（「我見」の意味については前篇第三章参照）<br />
　<br />
（空－七－四十）<br />
　だからこそ、大乗仏教は、良心の咎めを感じることなく、無数の如来（仏）・無数の明王・無数の菩薩を“どんどんと創作した”のです。<br />
　また、だからこそ、それを真に受けて、その存在を堅く信じて、それらの仏や明王や菩薩を日々信仰する者たちの眼前に、本当に如来や明王や菩薩が「有形なる姿」を身に纏って現れたし、これからも現れるのです。<br />
　「自性有る存在＝真の活動主体」は、限定が皆無なので、変幻自在です。<br />
　地上の肉体身を持つ者が、大日空王主に「個我を献上」し、主がそれを嘉納なさるならば、主はその者を御自分の媒体（腕サック人形）として使用し始めます。（そうした存在が諸仏・如来・聖者です。）<br />
　また、「献上された肉体身」を用いずとも、信仰者の信仰の念を因として、それに応える形で、主はどんな幻や示現や物質をも出すことができます。〔これは主の「自在な方便（便法）」即ち、主の「対機的方便」です。〕<br />
　<br />
（空－七－四一）<br />
　大日空王主が「幻・示現」を対機的方便として使用した具体例を次に挙げましょう。<br />
　空海が「強い強い信仰」を持っていたことは、入唐や帰朝の際の「航海」が当時としては命懸けであったことからも分かりますし、また、二十年の滞在が義務付けられている遣唐使の研修学生の身分にありながら、僅か一年で帰朝すること自体、掟破りで死罪に相当したにも拘らず、それでも敢えて帰朝したことからも、充分に分かるでしょう。<br />
　そんな彼が、唐に入って、「金剛／胎蔵」両密教を修した「とても貴重な人物」である恵果阿闍梨に会うことを得て、親しく「密教の秘法」を伝授され始めると、恵果阿闍梨の二千人近い弟子たちの多くは、（人間の弱さの故に、悲しい哉）強い嫉妬心を起こして、不平不満を言い始めました。<br />
　彼らの目からすれば、何処の馬の骨とも分からぬよそ者の空海は、「泥棒猫」の如き存在に見えたことでしょう。<br />
　そんな折、珍賀という高弟は「ひどい悪夢」を見ます。珍賀は、外護を司る四天王から、殴る、蹴る、踏みつけるなどのお仕置をされる体験をしたのです。翌朝、珍賀は己れの非を認め、悔い改めて、他の者たちをも戒め、空海への嫉妬心を捨てる努力をしました。<br />
　この夢は無論、究極的には大日空王主から来たものと言えます。この場合、主は外護の四天王という幻を登場させました。もしも、珍賀の夢にイエズス・キリストやパウロが登場して説法したならば、それは場違いなものとなり、ただ怪訝に思うだけになって効果がないでしょう。また、見知らぬ者から殴られたとなれば、お仕置きだとは理解しないかも知れません。だからこそ、大日空王主は珍賀が日頃から信仰している外護の四天王の幻を使用したのです。これが、人の個性と偏見に応じた、主の対機的な導き方です。<br />
<br />
（空－七－四二）<br />
　また、近代の大聖者シュリ・ラ－マクリシュナの場合（真－２４－７、２６）は、彼がヒンドゥ－教のカ－リ－女神を熱烈に信仰し、カ－リ－の出現を心待ちにしていたため、彼の熱烈な信仰に応える形で、大日空王主は、彼の眼前に「生きたカ－リ－神」を出現させ、彼と親しく会話させ、カ－リ－の口を通して彼に様々な導きを授けました。（カ－リ－女神のような“人間の形態をしていない”「異様な形態の生物」は「一種の霊的象徴」としてデザインされたものですから、実際に存在するはずがありません。にも拘らず、カ－リ－女神は出現したのです。）<br />
<br />
　（空－七－四三）<br />
　このように、大日空王主の「対機的な救いの御業」は超宗教的なものです。<br />
　阿弥陀仏を信仰する者には阿弥陀仏の姿を通して主は御業を為し給い、観世音菩薩を信仰する者には観世音菩薩の姿を通して主は御業を為し給い、聖母マリアを信仰する者には聖母マリアの姿をを通して主は御業を為し給い、シヴァ神を信仰する者にはシヴァ神の姿を通して主は御業を為し給ふのです。<br />
　故に、「玄奘法師が肉体身の観自在菩薩と遭遇した」と伝えられる「求法の旅」のエピソ－ドも単なる作り話だと軽々しく否定することはできません。<br />
　遙かなるインドを目指して長安を出立し、やっと空恵寺に到着した時のこと、玄奘は病で臥せっているインドの僧に出会い、彼を看病します。その際、「インドに行くのであれば、このお経を唱えて行きなさい、さすればどんな災難も切り抜けられる」と言われ、般若心経が伝授されます。<br />
　そして、苦難の末、漸くインドのナ－ランダ寺に辿り着いた玄奘は、なんと、ここで般若心経を教えてくれた同じインド僧に迎えられます。「どうしてあなたがここに？」と驚嘆する玄奘に対し、彼は　「我はアヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァなり」　と言い残して姿を消してしまいます。<br />
　<br />
（空－七－四四）<br />
　大日空王主は、実に無限の方便を用いて衆生を助け、導いておられます。<br />
　実に、大日空王主は、全宇宙の総ての動きを把握しておられます。如何なる小さな動きですら主の眼から見落とされるものはありません。雀一匹、てんとう虫一匹、蚊一匹、蚤一匹ですら、決して見落とされることはありません。そればかりか、人間の赤血球一つ、白血球一つ、そして遺伝子の塩基配列一つですら、決して見落とされることはありません！<br />
　そうであれば、大乗仏典が　「観世音菩薩は衆生が自分を呼ぶ声を決して聞き漏らさない」　旨の教示をしても、これを「作り話」と斬り捨てるべきではないのは当然です。そこには正しい真理が内包されているからです。<br />
　故に、「観世音菩薩」に対して、バクティ・ヨ－ガ（特定対象の外観礼拝）からのアプロ－チで信仰しても、それはそれで正しい信仰と言えます。<br />
　<br />
（空－七－四五）<br />
（イ）　ハンニャ－・ヨ－ガ（超対象の洞察礼拝）的なアプロ－チ<br />
　バクティ・ヨ－ガの信仰形態もそれなりに正しいという事を（ア）で見ました。しかし、「有形なる形態」にこだわっているレベルでは「正しい空観」に達することはできません。つまり、本当に「般若ヨ－ガを実践したい」と願うならば、（有形なる形態の）「観世音菩薩」に助けに来て下さい、と祈る方法では駄目なのです。<br />
　<br />
　★仏陀は偶像礼拝を禁止しました。『法と自己のみを中州（ディーパ）とせよ』というスタンスこそ、叡智のヨガのアプローチ法です。観音菩薩をスーパーマン的救世主と考えて礼拝すると、『我見　（中でも人我見）』　　という邪見が混入する可能性が極めて高いのです。（詳細は、前篇第三章の２　を御覧下さい。）<br />
<br />
　般若ヨ－ガの実践においては－－－<br />
＜「アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァ」と「瞑想の実践者」が一体化しなければならない＞－－－と言えます。これが、必須の要諦です。<br />
　そもそも、大乗仏教や密教では、「礼拝対象への集中・同化・一体化」という瞑想技法が基本技法として採用されています。<br />
　例えば「仏説聖不動経」には「不動明王の無相の法身は（無辺の）虚空と同体なれば、衆生の心に住み給う」とあります。故に、修行者は「不動明王」を一心に瞑想することで、不動明王との完全なる一体化を願い、そうして「不動心」を会得しようとするのです。<br />
　これと同じ事なので、「般若心経」の実践をする場合、修行者は「アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァ」を一心に瞑想することで、この菩薩との完全なる一体化を願い、そうして「正しい空観（中観）＝悟りのヴィジョン」を会得しようと希求しなければならないのです。<br />
　<br />
（空－七－四六）<br />
　故に、この場合「アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァ」を「観世音菩薩」という訳語で理解していては、いけません。<br />
　だからこそ、「アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァ」の内実を－－－<br />
Ａ．「遍く（絶対・相対）両界を自在に観想する（という）悟りへの発心堅固な勇者」　即ち　「観自在菩薩」<br />
Ｂ．「存在本源の光輝を遍く看取・観照する悟りへの発心堅固な勇者」即ち「観普明菩薩」<br />
　　－－－と理解した上で、修行者自身が<br />
①　「悟りへの発心堅固な勇者」　と成るように強く願って、そのように努め、　　　　　　　<br />
②　「遍く（絶対・相対）両界を自在に観想する」ことができるように強く願って、そのように努め、また、<br />
③　「存在の本質の光輝を遍く看取する」ことができるように強く願って、そのように努めること<br />
　　－－－こうした態度が重要不可欠になるのです。<br />
　<br />
（空－七－四七）<br />
　従って、般若ヨ－ガの瞑想法においては、「アヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァ（観自在菩薩・観普明菩薩）」という存在は、一つの「雛型」だと言えます。<br />
　この「雛型の三条件」と真に一体化する者は、（悟りに入る以前であっても）誰でもアヴァロ－キテ－シュヴァラ・ボ－ディサットヴァである、と言って良いでしょう。<br />
　チベット仏教のダライ・ラマの地位に就く者は「観自在菩薩の化身」と言われます。そして、現十四世ダライ・ラマの生活を見れば分かるように、彼は実に見事に、今挙げた「一体化のための基本姿勢（三要件）」①～③を充たしています。（実際に、悟ってしまえば「聖者」になりますが、観自在菩薩と呼ばれるためには「成仏の聖者」であることまでは必要ない、と言うべきでしょう。<br />
　但し、バクティ－・ヨ－ガの立場からは、観自在菩薩を衆生を救うス－パ－マンと考えてこれに助けを求めるのですから「成道の大聖者」と解することになるでしょう…。しかし、ここでは「叡智のヨ－ガ」の実践の立場からの話をしているわけです。）<br />
　<br />
（空－七－四八）<br />
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    </description>
    <category>観自在菩薩の意味</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/%E8%A6%B3%E8%87%AA%E5%9C%A8%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3/%E8%A6%B3%E8%87%AA%E5%9C%A8%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3</link>
    <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 07:40:56 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">hannyashingyou.blog.shinobi.jp://entry/6</guid>
  </item>
    <item>
    <title>心の意味</title>
    <description>
    <![CDATA[「心」は「フリダヤ」の訳です。そして、フリダヤには三つの意味が有ります。それは、①肉体の「心臓」の意味　②「（心情的）内心」の意味　③物事の核心・心髄・精髄・エッセンスの意味　です。（③は①から派生した意味です）<br />
　フリダヤに「心臓／内心」という物心両面の意味が有るのは英語のｈｅａｒｔ（ハ－ト）やフランス語のｃｏｅｕｒ（ク－ル）と同じです。<br />
　そして勿論、凝縮を旨とする般若心経では、「心（フリダヤ）」が「②と③の掛詞」になっています。よって、「般若波羅蜜多心経」という漢訳表題には－－－<br />
　　「完璧なる本地の叡智　（＝完全究極叡智）」という「心（唯心）」（について）のお経<br />
　　「完璧なる本地の叡智　（＝完全究極叡智）」の「心髄（エッセンス）」（について）のお経<br />
という二つの意味（顔）が有ります。<br />
　<br />
（空－七－三二）<br />
<br />
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<br />
]]>
    </description>
    <category>心の意味</category>
    <link>https://hannyashingyou.blog.shinobi.jp/%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3/%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3</link>
    <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 07:39:24 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">hannyashingyou.blog.shinobi.jp://entry/5</guid>
  </item>
    <item>
    <title>波羅蜜多の意味</title>
    <description>
    <![CDATA[　これは「パ－ラミタ－」の音写です。この意味については諸説有りますが、<br />
①「到彼岸」と訳す説（伝統的中国仏教の流れ）<br />
②「知慧の完成」と訳す説（中村元・紀野一義訳註参照）　の二種類が、一般的に流通している解釈です。　<br />
　<br />
　①「パ－ラミタ－＝到彼岸」と解するのは、正規のサンスクリット語文法からすると間違いであることが現在証明されています。この解釈は、丁度、「幸せ」を「（皺と皺を合わせて合掌）しわ＋あわせ」と解釈するような方法と言えます。ですから、パ－ラミタ－に対する俗な解釈法なのですが、しかしながら「パ－ラミタ－」を「彼方に（＝パ－ラム）達した（＝イ）状態（＝タ）」と分解して「到彼岸」の意味と解する読み方は、それなりに説得力が有るため、中国や日本では、歴史的に多くの僧侶・仏教徒が支持して来た解釈です。<br />
　一方、②「知慧の完成」という訳は、日本の最高学府出身の仏教研究の最高権威が提示した「新しい訳語」であり、戦後の日本仏教学界で不動の地位を得ている解釈です。<br />
　しかし、たとえ立派な学者であっても（又は、たとえロ－マ法皇であっても）人間である以上、間違いを犯すことは有り得ることです。（「無謬性」の否定）<br />
　<br />
（空－七－二九）<br />
　先に結論を言います。（日本の全仏教学者を敵に回す事ちなるとしても、はっきり言いましょう。）　②「知慧の完成」という訳は「六波羅蜜行」に引っ張られた解釈であり、大間違いの解釈です。<br />
　確かに、「六波羅蜜行」を「六つの完成行」と解するならば、その六番目に位置する「般若」の完成行は自ずと「知慧の完成」という訳語になるでしょう。<br />
　－－－しかし、「完成」という訳語を使用した処に、如何にも最高学府の学者らしい、マインドの強い思考パタ－ンが露呈している、と言えます。別言すると、「マインド停止」に近づくような、実際の深い瞑想修錬を怠った、口先ばかり先行する生臭仏教徒らしい言葉の使用法と言えます。<br />
　「私は日本最高学府出身だ」とか「私は誰より頭が良い」とか「私はサンスクリット語も英語も漢語もできる」とか「そこらへんの僧侶よりもずっと仏教に精通している」とか「私は大学の学長も勤める一流の文化人だ」とか「私は毎日新たな知識を『獲得』して、どんどん物知りになっている」等々、こうした「ニュ－ヨ－クの摩天楼」のごとき吾我驕慢心（あがきょうまんしん）をどんどん肥大化させて、「その先」に（人も見上げる）「完成」が有る、と思ったら、大間違いだと知らねばなりません。〔「僧医問題」（空－七－●●参照）もこれと軌を同じくする問題です。）－－－<br />
　真の仏教の修行は、何かを積み上げて「高い塔」を完成させるような「行」では断じてありません。その反対に、それら「吾我驕慢心という摩天楼」を悉く「叡智の利剣」で裁断し、そうして何も無い「平地」にして、遂には「本地」に到達しようとする「行」なのです。（これを「完成」と言うでしょうか。）<br />
　真の仏教の修行とは－－－泥土の中に埋もれた金塊を掘り起こしてその泥を除去し、中の金塊を露にして行くこと－－－に喩えられます。つまり、中の金塊は－－－＜最初から「完全にして完璧」！＞－－－なのです。別段、知識を積み上げて「完成」させて行く、というようなものではないのです。<br />
　<br />
（空－七－三十）<br />
　従って、「六波羅蜜行」とは、本来、「六局面での＜完全性＞顕現行」を意味します。<br />
　「荘厳なる無為」（前篇第三章第二節）は最初から「完璧」です。人間の「有為」だけが「無明なる動き＝不完全」なのです。よって、この「有為」を除去すれば当然－－－＜完璧なる無為＞－－－が現れる道理です。<br />
　故に、六波羅蜜行とは、六局面での「＜完璧なる無為＞との連動性」の達成を目的とする「行」を意味するのです。つまり－－－<br />
①「完璧なる布施」　②「完璧なる持戒」　③「完璧なる忍辱」　④「完璧なる精進」　⑤「完璧なる禅定」　⑥「完璧なる究極叡智」<br />
　－－－この六局面での「完璧」との「結合行＝ヨ－ガ」こそが、「六波羅蜜行」なのです。<br />
　－－－とすれば、これで明らかの通り、「プラジュニャ－・パ－ラミタ－」を「知慧の完成」と訳すのは完全に「誤訳」だと言えます。<br />
　正しくは、「プラジュニャ－（＝本地の叡智）・パ－ラミタ－（＝完璧性）」→「完璧なる本地の叡智（＝完全究極叡智）」と訳すべきです。<br />
　つまり、サンスクリット文法からすると、前分「プラジュニャ－（名詞）」＋後分「パ－ラミタ－（抽象名詞）」は「同格限定複合語」であり、ここでは「後分の名詞」が「前分の名詞」を修飾する形になっているのです。（普通、この形は、後分が前分を「尊敬・称賛」する形で修飾するものです。）<br />
　ですから、「本地の叡智（プラジュニャ－）・完璧なる（パ－ラミタ－）」となり、後分が前分を称賛しながら修飾する形だと言えます。<br />
　尚、パ－ラミタ－は、「パラマ（完全）」の抽象名詞形で「完全性・最高位・至高状態」の意味です。<br />
　<br />
（空－七－三一）<br />
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    <category>波羅蜜多の意味</category>
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    <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 07:38:25 GMT</pubDate>
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