写経といえば般若心経。今や写経の一般的な物となった般若心経。その般若心経を写経するにあたってその意味を理解することが大切です。 度一切苦厄の意味/般若心経と写経 忍者ブログ
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度一切苦厄の意味
 どの梵語原本にもありません。漢訳者の挿入です。読誦経典である「般若心経」に翻訳者独自の言葉を挿入するなど、まことに畏れ多いことです。清廉高潔な者ほど、こうした行動は慎み、躊躇するものです。
 にも拘らず、確信と勇気を持って、翻訳者自身の言葉を挿入している点に、漢訳者の並々ならぬ「思い入れ」を見て取ることができるでしょう。
 ---「度」について。
 「度」は「渡」と同じ意味です。故に、「度=渡」という言葉は「渡す(他動詞)/渡る(自動詞)」の両義に解することが可能です。
 先ず、「渡る(自動詞)」の意味に解する場合は「超越する」という意味になります。
 何故なら、実際に何処が「物質的な場所」を渡るのではなく、霊的な意味で彼岸へ渡ろうとする、即ち、古い自己を超越して行き、煩悩と邪見を超越して行き、「解脱~成仏」という「完全なる超越」を達成しようとするのが、仏道修行だからです。
 そして、この解釈こそが、漢訳者の意図に最も適合した「正しい解釈」です。
 尚、「一切の苦厄を超越した」との訳文を、「一切の苦厄を超越して仕舞われた」というように「敬語化」して訳すべきではないし、こうした敬語で読誦・朗誦すべきではありません。何故なら、「観自在菩薩」と一体化しようとする般若ヨ-ガ(空-七-四五以下)の瞑想法を実践する場合、「観自在菩薩」に対して敬語を使って「自分と分離して扱う」と、観自在菩薩と一体化できなくなってしまうからです。
 
(空-七-五七)
 次に、「渡す(他動詞)」の意味に解する場合は、(衆生を)「救済する」という意味になります。
 高神覚昇氏は、「般若心経講義」(角川文庫)の第二講で、次のように説いています。
「『五蘊はみな空なりと照見せられて、ついに一切の苦厄を度せられた』というのであります。すなわち、一切の苦というものを滅して、この世に理想の平和な浄土を建設されたというのであります」(32頁)と。
 この見解は「アヴァロ-キテ-シュヴァラ・ボ-ディサットヴァ」をバクティ-・ヨ-ガ(特定対象の外観礼拝)のアプロ-チで信仰している立場です(空-七-三九以下)。
 ス-パ-マンである観世音菩薩が衆生救済のために地上に降臨し、釈尊も成し得ず、イエズス・キリストも成し得なかった「地球全土の浄土化」をたった一人でやってしまった、という解釈です。(何たること! これを無批判に肯定する感覚は何でしょう!)
 特定対象讃美(この場合、観音信仰)もここ迄来ると異常でしょう。異常なのですが、残念ながら、日本の僧侶には(感情に任せて)この見解を採る者が多いのです。般若ヨ-ガの本質や、「叡智による否定の利剣」が何たるものか、全然分かっていないのです。

(空-七-五八)
 真の仏教は、修行者の「行」と別次元の「他力」信仰を教えるものではありません。
 飽く迄も、修行者と不可分の「中力」(★一-十-八、九★)を教え、「中力による賊我の滅却」を教えるものです。これぞ、理性と叡智の道です。
 仏教の「四諦(苦・集・滅・道)」(空-七-★百六十八★以下)を正しく理解する者ならば、過去と現在の悪業(悪いカルマ)が「綺麗さっぱり精算」されない限り、苦と厄難から逃れることはできない、と分かるはずです。
〔それなのに、天から観世音菩薩が飛んで来ると、それらの「積み重ねた悪業(カルマ)」を全部吹き飛ばして、チャラにしてくれる、とでも言うのでしょうか。〕
 般若ヨ-ガの実践者は、「行」によって「個我(五蘊)の無自性」を自覚・会得して「四源罪」(前篇第四章)から離れ、それによって「悪業の生産停止」に到る、という手順を踏みます。この手順を省略することはできません。「そんなことしなくでも、観世音菩薩が何とかしてくれるし、インスタントな悟りをプレゼントしてくれる」---このようには、夢にも考えてはいけません。
 こうした考えは、安易で怠惰で自分勝手な「悪魔=邪心(賊我)」の考えです。
 
(空-七-五九)
 ---以上、「度一切苦厄」の「度」は(他動詞の)「救済した」という意味ではないので、「観自在菩薩が衆生の一切の苦厄をお救い下さった」と読んではいけません。
 飽く迄も---般若ヨ-ガの修行者自身が、≪個我(五蘊)無自性≫ という真理を会得した暁にこそ---、身心脱落して「解脱」に到り、悪業の応報からも「超越」することを得るのです。この一文はそうして「法(ダルマ)」を教えるものです。
 この「正しき法」を念頭から離さないならば、困難があっても、途中で挫けそうになっても、ひたすら苦厄からの解脱(個人の救いの達成)を願い、更に一層の般若ヨ-ガに勤しむ「力の素」にはなることでしょう。
 
(空-七-六十)
 尚、「苦厄」は、苦しみと厄難の意味です。両者とも、避けようとしても不可避的に振りかかって来るものです。因果応報の法則が厳然として存在する以上、「悪業」を為してしまったならば、その自動的反作用としての「苦厄の到来」は覚悟しなければなりません。
 覚悟した上で、これから以降の悪業を産出しないよう「有為の滅却」に努め、利他行に励み、また、過去の悪業の報いについても、「移殃の儀」(星-11-23)の「法理」を学んで、振りかかる苦厄を最低限度に留めるべく、神仏の御加護を願い求めるなどして、そうして順次、「苦厄」を乗り越えて行こうと精進するのが、修行者の正しい信仰のあり方だと言えます。
 
 
(以上で、漢訳版の心経の 第一部 までの 解説を終了します。)
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